「イギリス式お金をかけず楽しく生きる」の著者 井形慶子さんは、最近の若者の特徴について、次のように書いている。少し長いが引用させていただく。
『 無個性で面白みのない人間になる恐怖
最近彼女のような若者が増えてきた。これまで日本社会がつちかってきた物質的な豊かさや、便利で新しい、モダンな生活スタイルに価値を見出せなくなっている。そればかりか、彼らは本能的にそんな日本社会の持っなまぬるさから逃れようとしている。
そうしなければ、自分が無個性で面白みのない人間に落ちぶれてしまうと考えているのだ。
それは若さゆえのアウトローではない。
貧しい、質素な生活の中に漂う人間味や生活感を本気でよいものと信じ、追い求めているのだ。』 p29
言葉としては、まさに 共感の嵐といっていいほど、私の心を揺さぶった。なぜなら、まさに うん十年前 若き日の私が、感じていたこと そのものであったからである。
よくこんな明確な文章に書けるものだと感動すらした。若い時に出会いたかった。
さて、そうやって生きてきてしまった今の私には、まずこれが、「若さゆえのアウトローではない。」と言い切れる自信がなくなっている。つまり貧しい、質素な生活の中に漂う人間味や生活感を本気でよいものと信じ、追い求めた結果はどうだろうか。
ほとんどの人は、長年の貧しさに、歳とともに耐えられなくなってゆく。「家族と生活することは、そういうものである。」というのは、うがった意見かもしれないが、半分は事実ではないだろうか。
しかし、それでも ある人々が、そこにたどりついたという事実も知っている。そのことを、前提にしてでいるのだが、
追い求めたのだから、貧しくて、質素な暮らしのスペシャリストになっている。そして その生活の中に人間味や生活感を感じていられる暮らしを手に入れている。はずである。
それも いろいろな問題はあるにせよ。手に入れたならば それは大変すばらしいことに違いない。ただ その価値感を共有できるパートナーなり、友人が共にいてくれることを、願うばかりである。
つまり 何を言いたいのですか? こういう考え方は、当然 今の効率優先のデジタル社会に適応する生き方には思えない。結果 孤立しやすい。
個性を重んじる社会と ただ単に孤立した社会は、区別しなければならないと思う。
今や 個性的な人達は、限られた分野以外では、ますます。逆に 同じ考え方・同じ行動を求められている。ただ 従来のように、大きな はっきりした声で、誰もが言わないだけで、「君 わかっているよね。」と 静かに無言で問いかけられ続ける。
そして、見えない聴こえない問いかけに、いらだってきた時、心を病んでゆく。
個性的なことを求める時代という金看板とは、裏腹に、静かに 暗黙に 無個性な人間になって、社会に従順たれ。と誰かが囁く。
そして、「それを、あなたが選んだんですよね。はい。」となる。
家族も、学校も、会社も、社会も、国家も。。。そう 誰も あなたに 「平凡で無個性で面白味のない人間になれ。」 なんて言っていないですよね。
まったく。。。。 溜息が出ますねえ。
私は、何をいいたいんでしょうか。そうです。個性的・無個性的 二者選択はあやうい のではないかと いいたいわけであります。
どの道を選択したとしても なかなか人生は、手ごわいわけで、この道だけを、まっすぐにでは、やっぱりあやうい。その時その時 臨機応変 道草をくいながら、凡人なりに、生きてゆく。
結果として貧乏なら貧乏を楽しめばいいし、運よく 豊かな生活が手に入ったら、豊かな生活を通して 学べばいい。というのは、やっぱり。爺のたわ言なんでしょうねえ。
本日は、まとめきれないままの たわ言になってしまいました。反省にて候。。
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